ノーベル文学賞を受賞した作家ハン・ガンさんに私が直接会ったのは、後にも先にも一度だけで、2013年の東京国際ブックフェアの時だ。この年のテーマ国が韓国で、韓国から作家がたくさん参加していた。そのうちの一人がハン・ガンさんだった。この時、ハン・ガンさんは作家の中上紀さんと共に登壇し、「女性のアイデンティティーと文学」について語った。ハン・ガンさんと中上紀さんはいずれも父で作家の韓勝源(ハン・スンウォン)さんと中上健次さんが親しかったという縁がある。
ハン・ガンさんは小説「菜食主義者」で2016年にブッカー国際賞を受賞して世界的に知られるが、2007年に韓国で出版された「菜食主義者」は、日本では2011年にきむ ふなさんの翻訳で出版されていた。「菜食主義者」を日本で出版したのは、韓国文学の翻訳出版をメインにしている出版社クオンで、「新しい韓国の文学」シリーズ第一弾が「菜食主義者」だった。クオンからは他にハン・ガンさんの小説「少年が来る」(井手俊作訳)、エッセイ集「そっと 静かに」(古川綾子訳)、詩集「引き出しに夕方をしまっておいた」(斎藤真理子・きむ ふな訳)の計4冊が出ている。他の出版社も合わせると日本で計8冊。2020年に6冊の時点でハン・ガンさんは「日本は一番たくさん私の本が出版されている国」と話していた。
クオン提供
2013年当時私は朝日新聞の記者で、日本の小説が韓国でよく売れているという趣旨の連載を執筆していて、「では、韓国の小説は日本では?」というのを書いた回で、ハン・ガンさんのコメントを使った。東京国際ブックフェアでハン・ガンさんが登壇した後に、一言コメントをもらったのだ。「読み手も書き手も旅行やインターネットで世界を行き来し、小説にも国境がなくなりつつある。日本でも韓国の小説は受け入れられるはず」と話していた。その後、日本で韓国文学ブームとなり、ハン・ガンさんのノーベル賞受賞でさらに注目を浴びているが、2013年の時点で日本ではあまり韓国文学は知られていなかった。
ところで、私は韓国映画を専門にしているが、世界的に知られるホン・サンス監督の母、全玉淑(チョン・オクスク)さんが、実は日韓の文化交流に関して重要な役割を果たしていた。その一つが、1975年から11年間にわたって発行した「韓國文藝」という季刊誌だ。韓国文学を日本語に訳して紹介する雑誌で、ハン・ガンさんの父、韓勝源さんの小説も掲載された。中上健次さんはこの「韓國文藝」をきっかけに韓国文学に興味を持ち、全玉淑さんの誘いで1981年には6ヶ月にわたって韓国に滞在しながら、たくさんの韓国の作家と交流した。
中上健次さんは1985年、編者として「韓国現代短編小説」(安宇植訳)という本を日本で出している。解説は中上健次さんが書き、紹介した8人の作家について作品解説のみならず個人的なエピソードも披露している。韓勝源さんについては「私の韓国滞在中、夫婦で私のアパートの部屋にキムチを差し入れしてくれた。当時、全羅南道の田舎暮らしから一家でソウルに移って来た頃だったから、他郷暮らしの私の生活の不如意に同情してくれてのことだ」と、綴った。この頃中上健次さんはハン・ガンさんにも会っている。この交流を知っていたクオンの金承福社長が、「菜食主義者」を出版後、ハン・ガンさんと中上紀さんの往復書簡を提案し、月刊誌「スッカラ」で連載された。
中上健次(右)さんと親しかった韓国の作家、韓勝源さん(中央)、尹興吉さん=中上紀さん提供
ハン・ガンさんは2013年、「熊野大学」の公開講座にも参加している。「熊野大学」は和歌山県新宮市出身の中上健次さんが生前立ち上げた文化組織で、ハン・ガンさんが新宮市まで足を運んだのは、やはり中上健次さん、中上紀さん親子との縁があったからだ。この時も中上紀さんと一緒に登壇した。
日本がもっともハン・ガンさんの本をたくさん翻訳出版している背景にはこういった交流も少なからず貢献したと思う。全玉淑さんは、1980年に韓国の雑誌に「『韓國文藝』の意義」という文章を書いていた。その意義は「韓国文学が世界文学として翻訳されるための一つの実験」と述べている。翻訳されなければ海外では知られようがない。その第一歩だった。「韓國文藝」創刊の1975年からほぼ半世紀。ハン・ガンさんのノーベル文学賞受賞まで、多くの人の努力があったことも覚えていたい。
成川彩(なりかわ・あや)
韓国在住文化系ライター。朝日新聞記者として9年間、文化を中心に取材。2017年からソウルの大学院へ留学し、韓国映画を学びつつ、日韓の様々なメディアで執筆。2023年「韓国映画・ドラマのなぜ?」(筑摩書房)を出版。エッセー「映画に導かれて暮らす韓国——違いを見つめ、楽しむ50のエッセイ」(クオン)を今月刊行。
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