大病寛解に一層精進 母、恩師他界…人生後半に期する想い
佐野史郎さんは俳優の道を歩んで50年になります。3年前に大病を得て、2月にはずっと見守ってくれた母が他界しました。故郷・松江の歳月を経た家には、家族の品々が残されるばかりとなりました。テレビドラマの「冬彦さん」など数々の人物を演じてきた佐野さんも、2025年には70歳を迎えます。来し方を振り返り、人生の後半に目を向けて語ります。
終戦から10年になる1955(昭和30)年に生まれました。所得倍増計画が立てられ、「もはや戦後ではない」とされた高度経済成長時代の幕開けの頃です。
母の生き方映した遺品
松江で幕末からつづく医家の長男として育ちました。父は東京医大の勤務医でしたが、宍道湖の近くの生家に戻り、開業医として人生を歩みました。母が育ったのは出雲大社のある出雲は大社町。結婚してからは、佐野家を守ることに一生懸命でしたね。
医院を兼ねた家屋は安政時代、約170年前に建てられたものです。幼い頃、かまどでごはんをたき、囲炉裏を囲んで食事をした記憶があります。母屋だけで10部屋以上あります。これを時代が進むにつれて、キッチンや応接間を設けるなど現代風に改築したのでした。老朽化で建て替えの話も持ち上がったようでしたが、母は祖先に申し訳ないと受け入れませんでした。戦中に子どもの頃を過ごした人です。物資に乏しい時代に育ったせいでしょう。ものを捨てられない性分でした。他界する少し前から施設で暮らすようになっていましたが、今年2月に亡くなりました。
松江の家に残された品々の量には圧倒されました。明治時代からの食器や着物、2000年に亡くなった父の愛用カメラなどがありました。これは残しておくべきものなのかなあ、というものもたくさんありました。たらいなどの生活用品、僕や弟妹が子どもの頃に使っていた道具やおもちゃなど。それらを前にすると、いったいどうすればいいのか、と途方に暮れました。
振り返って見れば、遺品は昭和初期から続く母の生き方を現しています。佐野家を思い、祖先から受け継いできたものを守ろうと、ともあれ一途でした。残された品々はもはや使うことがないものでしたが、母の生き方からすれば、決してゴミではないのでしょう。
遺品の集積をひとつひとつ見てみると、時代が映し出されています。消費社会が広がったせいか高度経済成長期に購入したものが目立ちました。
「家じまい」に見える家族の現実
僕は長男ですが医院は継げず、分家した弟が家業を引き継ぎました。けれど「家は長男が継ぐもの」という家父長制度の名残の呪縛から母は逃れられずに、お墓、家は僕が継ぐことに。ですが空き家を放置しておくわけにもいかないので、結局「家じまい」することにしました。少しづつ遺品整理をする中で、熟慮して遺品として手元に残しておかなければならないと思ったものはごくわずか。残りはほとんどがゴミ。あわせると10トン以上の不用品がありました。これが資本主義社会の遺した一家族の現実なのだと戒められる想いでいます。
高齢化が進む中ではありますが、僕のように子供と別々に住む両親を亡くし、その遺品を前にしてどうして良いかわからなくなってしまう人は少なくないと思います。だからといって生前整理を独りで、あるいは子世代の家族の意見と擦り合わせながら進めるのは、現実には容易でないでしょう。
そうした心境のタイミングで、遺品整理や生前整理に取り組む企業のウェブCMに出演するご縁がありました。
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僕の場合は3年前に多発性骨髄腫という大きな病を得ました。幸いにして寛解しましたが、敗血症にかかり、一時はもうだめかというほど追い込まれました。そんな厳しい局面を乗り越え、父も母が他界した今、世を去るということの現実は、かつてより鮮明に見えるものもあります。
思えば、島根・松江の築約170年という古い家で、両親は愛情深く兄弟妹3人の子育てをしてくれましたが、その愛情はいつしか「家」を守るという使命となってしまったようにも思い返しています。ですが一方で、母はロマンチックな文学や音楽が好きで「ロミオとジュリエット」といった、シェークスピア作品の魅力などを伝えてくれました。僕のどこかセンチメンタルな感受性は、母から引き継いだようにも思います。父もまたバイオリンを弾き、オーディオマニアでカメラも好きでした。そうした環境で得たものは俳優を続けていく中で大切なものとなっています。
平坦でなかった俳優の道
ですが当初、両親は長男の僕に医者になって後を継いでほしい、と切望していました。高校時代までずっとです。ただ、勉強もできませんでしたし、表現への想いを止めることはできませんでした。高校卒業後は上京して、自分なりの表現手段を探ることになります。
松江の医院は弟に任せてきた負い目が正直あります。その分、家族や親族に後ろ指を指されないように踏ん張ってきたところもまたあります。
故郷の父母も応援してくれました。32歳の頃、NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」に出演したときのことです。その頃、大河ドラマに出演するのは「紅白歌合戦」に出演するに等しく、父は喜んで、画面に映った僕の名をカメラで写したほどでした。母はピアノを奏でたり、漢詩を好んだりもしていましたので、僕が芸事の道に進んだことを喜んでもいました。
ただ、そんな風に人前に出られるまでの道程は、決して平坦(へいたん)ではありませんでした。
「冬彦さん」流行語大賞 現代のかなしい存在
20代は駆け出しの俳優として、劇団「シェイクスピア・シアター」で修業をしました。その後、「紅テント」で知られる「状況劇場」に入ります。主宰するのは現代演劇を変革した立役者の一人、唐十郎さん。恩師として学ばせていただいたことは、とても一言で語れません。
30代以降は舞台から映像の世界に軸足を移し、仕事は選ばず、「これをしくじったら次はない」という、一回きりの勝負を挑みつづけました。
そして、当たり役を得ます。1992年放送のテレビドラマ「ずっとあなたが好きだった」(TBS系)のマザコン男、桂田冬彦役です。
視聴率は次第にあがり、最終回は34・1%に達します。賀来千香子さんを相手役とした「冬彦さん」はマザコンの代名詞ともなり、92年の新語・流行語大賞の流行語部門金賞に選ばれます。年間大賞は「きんさん・ぎんさん」。ほかの受賞した言葉も「カード破産」「もつ鍋」といった、世相を映したキーワードばかり並んでいます。
「ママ」に頼り切りの冬彦は、高学歴、高収入、高身長と条件が整った三高のエリート銀行員でありながら、移ろいゆく時代の波に乗っていけない。新婚の妻にも心を閉ざしてしまい、信じられるのは過保護のママだけです。「こんな世の中だから、こんな男になってしまったのか」。何とも言えない、かなしみを感じさせる存在でした。
ひるがえって、僕自身の子育てはどうだったでしょうか。一人娘を授かったのは、冬彦さんを演じていた頃と重なります。猛烈に忙しくなりました。子育てを振り返るとほろ苦いものが残ります。妻に任せっきりでした。家にいれば洗い物や洗濯といった、できることはなるべくするようにはしていました。けれど仕事に追われ、ほぼ子育てらしいことはできず、たまの休みがあれば、家族を旅行に連れて行くことで埋め合わせをしていた気になっていました。
その頃、バブル経済は崩壊していましたが、栄養ドリンクの「24時間戦えますか」のキャッチフレーズで知られるような働き方が、撮影現場でもまだ当たり前でした。
そうした働き方は、亡き母が子育てをした高度経済成長時代にもてはやされたモーレツ社員像とも重なるように思います。僕らが子育てをした頃もイクメンのような「仕事も家庭も」という生活感覚は浸透していませんでした。
ただ、その一人娘は妻のおかげもありマイペースでおおらかな人に育ってくれました。美術を学び、木版画に取り組んで、美術関連の会社に勤めています。
娘には思うように生きてほしいと思います。思考停止に陥らず、理想を探り続けてほしい。世界各地で残虐な戦争や内乱が続く中それができる国や地域、家庭であって欲しいと思います。
冬彦を演じた後、機会に恵まれ、国内外の作品に出演してきました。たいへん幸運な俳優人生だったと思います。ところが60代の半ばに至った3年前、視界は暗転します。
大病のつらさ 「早く楽に」と心中叫んだ
2021年春、血液のがんの一種である多発性骨髄腫であることが判明しました。出演中のテレビドラマからも降板を余儀なくされました。
入院中に敗血症になってしまい、これが地獄のようにつらかった。高熱が続き、意識がもうろうとなる。太ももを剣山で刺されるのにも似た痛みにも襲われました。それらが2週間ほど続き、あまりのしんどさにあの世の入り口が見えた気がしました。「早く楽にしてくれ」と心の中で叫んだこともありました。
俳優とは、もうひとつの作られた現実に生きる肉体のこと。そうした存在として数々の現場を越えてきても総じて元気でしたし、体力には自信がありました。そのせいか大病を得てから、これまでとは違う感覚を抱いています。
今年の8月、久々の舞台「コスモス 山のあなたの空遠く」に出演しました。劇団で育った僕ですが、舞台に立つのは今でも恐ろしいものです。それでも大病をした後、体力への不安もあるなか、千秋楽まで演じきれました。とても自信がつきました。
唐十郎他界 語り尽くせない恩師
今年5月には若い頃、5年間過ごした状況劇場で学ばせていただいた、恩師の劇作家、唐十郎さんが旅立たれました。思えば、今に至るまで僕が俳優として生きる力の源泉は、唐さんとの日々にあったと思います。
唐さんは「アングラ演劇の旗手」と呼ばれ、大変な人気でした。若かった僕の憧れです。演劇界だけの存在ではなく、1983年には「佐川君からの手紙」で芥川賞も受けた鬼才です。
演劇という名の詩。
状況劇場が目指した表現を振り返ると、そんな言葉が浮かびます。語り尽くせないものがあります。
脚本の読み方ひとつ、違いました。書かれていることの向こうに何があるのか。固定観念を捨て、独自の解釈をせよ、と「誤読のすすめ」を唱えていらっしゃいました。書かれていることの説明をするのではなく、現前化せよと。
だから、台詞(せりふ)を発する時も滑舌良くなめらかなだけではいけない時があるのです。言いよどみがある方が真実味が伝わることもある。そういった機微を教わりました。
役柄の「弁護士」のように、その役に寄り添うように努めようと思うようになったのも、恩師の教えを受けてのことでした。
訃報を聞いた時は思いめぐることが多過ぎて、言葉になりませんでした。唐さんのまなざしから学ぶことは、まだまだ多いと思っています。
大病から日常へ 同じ病の方々の励みになれば
大病を得て3年半がたちまました。いろいろなかたちで、励ましのお声を頂きました。同じ病気の患者さんのメッセージにも励まされています。知らない方との交信ですが、不思議と通じ合うものがあります。
おかげさまで寛解状態が続いています。日常生活に戻れた僕の姿が同じ病の方々の励みになれば芸能者としては本望です。僕もまた、がんになってから長年生きていらっしゃる方がいると心強く感じます。お会いしたことはないけれど、病によってつながった方々に見ていただくためにも、一層精進して仕事を続けなければと思っています。
病の床に伏していた時、人は特別な存在ではなく、樹木や虫と同じように、ただ存在しているのだと感じました。現実であれ虚構であれ、そこに存在していることを、人々とただ感じあう。
そんな表現の理想を思う時、僕は光と影が刻々と動く、故郷・宍道湖の暮色を想像します。観る方々との共振を追求する原点は、やはり故郷にあるようです。
(構成・木元健二)