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台東区立一葉記念館

「たけくらべ」 肉筆が語る試行錯誤

樋口一葉自筆 「たけくらべ」未定稿3枚目

 樋口一葉(1872~96)の小説「たけくらべ」の舞台となった東京都台東区竜泉(旧下谷龍泉寺町)に当館はあります。一葉は1893年7月から約9カ月、この地に暮らし「たけくらべ」の着想を得たと考えられています。8月の千束稲荷神社の祭り、11月の鷲神社の酉(とり)の市、霜が降りる冬……。「たけくらべ」に流れる時間は、一葉が暮らした時期とほぼ一致します。

 当時の竜泉は、遊郭・吉原に隣接し、貧しい人も多い地域。一葉が荒物駄菓子店を営んだ家は、遊郭を往来する人力車でにぎわう通りに面していました。友人に「このあたりでは、まだ年端のゆかない女の子が吉原で全盛になるのが、親孝行だと思っている」と述懐しています。吉原での大成を無邪気に信じる女の子は、「たけくらべ」の主人公、美登利そのものです。
 それまでの一葉は、古典などに題材を得て空想の世界を小説にしてきました。竜泉に暮らし、現実を目の当たりにしたことで、年頃の子どもたちの心模様を、移ろう季節とともにみずみずしく描くことができたのだと思います。
 開催中の企画展では、「たけくらべ」の未定稿を展示しています。肉筆資料は保護のため、普段は表に出さないので貴重な機会です。和歌や書をたしなんだ一葉の流麗な筆跡が見てとれます。
 原稿用紙22枚の未定稿には、推敲(すいこう)を重ね、試行錯誤した様子が残ります。3枚目の原稿は、祭りの日に集まるまでの美登利らの様子を枠外まで使って描いていて、ラフのような原文に徐々に細かな描写が書き重ねられたことがわかります。
 父と長兄を亡くし、母と妹と3人の暮らしを大黒柱として支えた一葉には、樋口家を離れて薩摩焼の絵付け師となった6歳上の次兄・虎之助(1866~1925)がいました。一輪挿しは、虎之助作と伝わり、実際に一葉が使っていたものです。一葉は、薩摩焼の絵付け師を題材にした小説「うもれ木」が評価されたのを機に原稿依頼が増え、「たけくらべ」の執筆につながりました。

 (聞き手・三品智子)


 

 《台東区立一葉記念館》 東京都台東区竜泉3の18の4(☎03・3873・0004)。[前]9時~[後]4時半(入館は30分前まで)。原則[月]([祝][休]の場合は翌平日)、5月19~23日など休み。300円。企画展「樋口一葉の小説のつくり方」は5月18日まで。

台東区立一葉記念館  https://www.taitogeibun.net/ichiyo/

 

 

いしい・ひろしさん

学芸員 石井広士さん

 いしい・ひろし 法政大学文学部卒。2019年から現職。

(2025年3月22日、朝日新聞マリオン欄掲載記事から。記事・画像の無断転載・複製を禁じます。商品価格、営業時間など、すべての情報は掲載時点のものです。ご利用の際は改めてご確認ください)

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