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最澄ゆかりの比叡山延暦寺とその周辺をめぐる(3)

 ◆神猿がお出迎え 山王総本宮・日吉大社

日吉大社

 日吉大社の創祀は紀元前91(崇神天皇7)年。古くは「日枝」「比叡」「稗叡」などと呼ばれた地で、古事記に「大山咋神(おおやまくひのかみ)、またの名は山末之大主神(やますえのおほぬしのかみ)。この神は近淡海国の日枝山に坐す」と記された、地主神をまつったことがはじまりとされる。平安時代頃から縁起のよい「吉」が用いられ「日吉(ひよし)」になったという。神体山である八王子山(牛尾山)と約43ヘクタールの神域に点在する約40の社からなり、桓武天皇の平安遷都以降、都の表鬼門に位置することから魔よけ、災難よけを祈る社とされた。境内は、大山咋神をまつる東本宮、天智天皇が大津京に遷都した翌年668(天智7)年に奈良の大神(おおみわ)神社から勧請した大己貴神(おおなむちのかみ)がまつられる西本宮=写真=、磐座の金大巌(こがねのおおいわ)が鎮まる奥宮のエリアに分かれる。建物は、延暦寺と同じく信長の焼き打ちでほとんどが焼き尽くされたため、秀吉の尽力で再建された姿を今にとどめる。

神猿

 散策していると、様々なところで神の使い「神猿(まさる)」を目にする。「魔がさる」「勝る」と縁起がよいとされ、延暦寺の良源が詠んだ「見ず聞かず いわざる三つのさるよりも 思わざるこそまさるなりけり」という、怒りや恨み、おごりといった心を持たない「思わざる」が最も大切という教えが示されている。

 日吉大社と延暦寺との縁は、最澄が生まれる前までさかのぼる。父・百枝と母・藤子はなかなか子宝に恵まれなかったため、父親が大山咋神が鎮座する八王子山にこもって祈祷(きとう)したところ、ほどなく最澄を授かったという。その霊山を仰いで育った最澄は、東大寺戒壇院で国に正式な僧侶と認められたにもかかわらず、自らを高める修行の地として比叡山に延暦寺を開き、日吉の神々を天台宗の護法神とした。以来、日吉大社は中国の天台山国清寺にまつられる「山王祠」にならって「山王権現」「山王」と称され、神仏一体となって国家の守護を担っている。現在、全国に3800余りある日吉・日枝・山王神社の総本宮として崇敬される。

 禰宜(ねぎ)の矢頭英征さんは「町から八王子山のお社が望め、地元の方々からは『日吉さん』と親しんでいただいております」と言う。「坂本は『静』と『動』がすごくはっきりとしていますね。いつもは静寂な町が、毎年4月12~14日の『山王祭』では神社と氏子の距離みたいなものが取り払われ、一気に町全体が熱気に満ちます。他の地域とは違ってとても不思議な関係がそこにはありますね。延暦寺さんにつきましても、私たちは延暦寺さんを本当に大切に思っておりますし、延暦寺さんも日吉のお社を大切にしていただいている。色んな歴史を乗り越え、今が一番いい関係を築けているのでは」。次に、比叡山の焼き打ちから復興した坂本の町並みのルーツを訪ねた。

 

 ◆延暦寺の本坊 滋賀院門跡

 

滋賀院門跡

 坂本には穴太衆積みの石垣に囲まれた約50の里坊が残る。ひときわ目立つ高い石垣と白壁、3ヘクタール(1万坪)ほどの境内の広さを誇るのが、延暦寺本坊の滋賀院門跡だ。焼き打ち後の復興に力を注ぎ、家康・秀忠・家光の徳川3代の将軍に仕えたことで「黒衣の宰相」といわれた天海(1536~1643)が、1615(元和元)年に後陽成上皇から京都・北白川の法勝寺の高閣を授けられ、移築したことにはじまる。55(明暦元)年、後水尾上皇から「滋賀院」の号を与えられた。門跡とは、皇族や貴族が出家して住職を務める寺院で、江戸時代末までは天台座主の御座所であったことから、地元では「滋賀院御殿」とも呼ばれている。この滋賀院を中心に里坊をはじめ坂本の再建が進められたという。

 境域には、内仏殿や宸殿(しんでん)、書院、土蔵などが立ち並ぶほか、小堀遠州作の名勝庭園がある。建物は1878(明治11)年の火災で全焼し、80(同13)年に延暦寺の建物を移築再建したもの。建物内には延暦寺の宝物が保管されており、狩野派の渡辺了慶のふすま絵や天台座主が乗る殿上輿(てんじょうごし)、天海が着用した鎧兜(よろいかぶと)などが陳列され、拝観することができる。また、延暦寺から西塔の釈迦堂に分灯された「不滅の法灯」も展示されている。

 事務長の岩崎惠晢(けいせつ)さんは、延暦寺、滋賀院、坂本との関わりについて「私には仲座という仕事もあります。延暦寺のすべての法要の準備を取り仕切る役目で、法要があると、ここの六つの蔵から必要な衣や念珠、仏具なんかをすべて山に上げ、終わったら下ろし、手入れして収納するということをしており、まさに直轄の門跡寺院です。そこに本坊という寺務の取りまとめがあって、坂本から山にあげる物資だったり出入りの商売人さんだったりを、字のごとく仲に座って取り持っています」と話す。

 最後は、坂本の復興に尽力したもう一人の人物である明智光秀ゆかりの地へ。

 

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