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新撰組終焉の象徴と言われる“油小路の変”を通して、幕末の京都、激動の時代をくぐり抜けた武士と庶民の生き様を活写した、オリジナル脚本の時代劇映画『CHAIN/チェイン』の初日が、11/26(金)よりテアトル新宿、12/10(金)より京都シネマにて公開が決定、以降全国順次ロードショーが決定。本作の予告編が完成、缶バッチ&ポストカードの特典付き前売り券発売を開始した。
公開された予告編は、新撰組と御陵衛士が激しく斬り合うシーンが連なり、「油小路の変」に巻き込まれる庶民たちの姿も映し出される。幕末の京都で、鎖国で長く孤立状態にあった日本を変えるため、様々な主義主張をぶつけ合い血を流し争っていた最中、「国をひっくり返すのではなかったか?」「政情が変わる。我らは波間に揺られる草舟よ」「何のために生きるのか」「生きるに意味などいらぬ」「暗殺だ」「私たちは殺し屋ではない」「その刀でこの国は変わる」「百年も経てば、きっと…」など、激動の時代を生きた武士や庶民の想いが込められたセリフが印象的に響く。
■『CHAINチェイン』予告編
また、本作をいち早く鑑賞した俳優の佐藤浩市さん、映画監督の阪本順治さん、古厩智之さんから応援コメントが到着。阪本順治監督は、幕末の京都と現代が交錯する本作について、「従来の志士だけに注目した幕末時代劇の作法を拒み、多様な視線をもって江戸の末路をえぐる」「観客が、大胆な転換や背景描写に驚くだろうが、この横紙破りこそ、監督が絶対譲らなかった狙いであり、その覚悟ある越境と自在な采配にこそ、いまの時代に問うべきイシューが含まれている」と本作の魅力を語り、また、新撰組から離脱し「御陵衛士」を結成する伊東甲子太郎役を好演し、本作撮影終了後に俳優引退を表明した高岡蒼佑にもメッセージを投げかけている。
<コメント全文>
◆佐藤浩市(俳優)
時代劇の約束事を反故にするオープニング(後に造り手の意図は伝わる)からどれだけ破天荒な世界観の映画が始まるのかと思いきや「CHAIN」は、諸国の事情を背負いながら目線は日本の夜明けからずれる事のない者、立身出世を目指す者、自身の足元を見据えるリアリストなど、新撰組という烏合の衆を消してステロになる事なく丁寧に描きながら油小路の変に進んでいく。
最後の叫びは、いつの世も来世への希望であり、現世の絶望である。
◆阪本順治(映画監督)
劇中の菓子屋のせがれが志士たちに放つ「政治ってなんね!」という科白が心に響いた。
幕末において、おとこたちは、青臭いほどの論を説き、その熱情が自尊心をたぎらせ、血の匂いを求めて悦に入るバカどももいて、一方、おんなたちは、そんなおとこたちに哀れみと、強烈な違和感を示した。物語には、陰間も加わり、従来の志士だけに注目した幕末時代劇の作法を拒み、多様な視線をもって江戸の末路をえぐる。
観客が、大胆な転換や背景描写(ここでは云えない!)に「え、なんで」と驚くだろうが、この横紙破りこそ、監督が絶対譲らなかった狙いであり、その覚悟ある越境と自在な采配にこそ、いまの時代に問うべきイシューが含まれているのだ。
私の同業者、つまり映画監督たちはこの作品を観て、誰もが驚嘆、共鳴、次なる道標のきっかけを掴むだろう。
加えて、存じ上げない俳優さんがたくさん出演していたが、みんな、余計な熱演を避け、自然体で素晴らしかった。と、高岡蒼佑、またいつか戻ってこいよ。傑作です!
◆古厩智之(映画監督)
描かれるさむらいたち。いや、さぶらふ(従う、仕える)ことが叶わない居場所のないさむらいたち。
会津脱藩の無名浪士・桜七郎、新選組を抜け御陵衛士隊を結成する伊東甲子太郎、近藤勇の間者として衛士隊に潜入する斎藤一…。
彼らはみな確固たる自身がない。徳川の世が揺らぎ、佐幕を、勤王を語るけど、言葉は空転する。視線を合わさず、モヤモヤとみな地を這いずるようだ。
この空気、初めて見た。しゃっきりした幕末モノって嘘っぽい…と思ってたのだ。“自らを信じられない者たちの幕末”は、こんな空気の底を這い回っていたのではないか。
他方、刀を持たぬ者たちも描かれる。
まだ少女の夜鷹が死んだ弟の面影を語る。過酷な野外生活。肌はブツブツに覆われている。
キレイな顔立ちの青年陰間(男相手の男娼)は、ゴザの上で男に乱暴に抱かれる…。殴られ、弱く、加害されるばかり…。
男たちにアヘンを吸わせ、胡弓を弾く美しい女。京の夜に男たちを沈め自らも沈む…。
新選組たちの惨劇を町娘は格子の隙間から覗き見ることしか出来ない…。
迫害され、夜の狭間で生きるしかない弱い者たち。彼、彼女たちがアジール(避難所)を作っていく物語かと思いきや、そうはならない。いっとき寄り添いはするが、彼らはひとりのまま。日々は過酷を極めて行く…。
さむらいたちが追い詰められ、さらに地へ沈むころ。
夜鷹や陰間、アヘン窟の女たちも分断され、孤立し、ひとりになる。押し潰され死んでいく。俳優たちがとてもエモーショナルだ。映画を振動させるように感情を爆発させ、内側から鈍く光を漏らし、彼女たちは京の夜の隙間に消えて行く。
彼女たちに感光するように、さむらいたちも発光する。各々の交わらない大義を言い訳に刀を振るうとき、血しぶきが、居合の一閃が。それまでの勤王佐幕の議論を吹っ飛ばし、生き生きと画面を満たす。躍動する。
空転する議論の末、血しぶきをあげるさむらいたち。叫び、泣いて死んでいく夜鷹。あちこちでロウソクの火がふいに明るくなり、消える。まっくらになって行く京の闇で、今までたくさんの火が灯っていたことに気付く。それが喜びそのものだったと気付く。ずっと謳われていたのは人間賛歌だったのだ。
「CHAIN」は、生をことほいで(寿いで)いた。
血にまみれた幕末なのに、人が生まれて死ぬことそのものが、祝祭のような映画だった。
11/26(金)よりテアトル新宿、12/10(金)より京都シネマほか全国順次ロードショー